無欲の日本史(仮)

一体私はいくつのブログを立ち上げてきたのだろう。最近、無料ブログの時代は終わったので、先日も1つ消え去りました。いちおう記録は取りましたが。そのブログは年に1回くらいしか更新しない状態になっていたので、終了アナウンスに気づいた時は既に利用不可になっていました(新規更新すらさせないとは、ひどい雑な処理ですよね)。

 

今回のブログもそうなるかと言えば、それはそうならないとは思います。これは本来的には私のライフワークと言うべき作業にしなくてはならないはずのものです。ただ、それは非常に不遜であり、内容的にも難しいので、自分自身できるのだろうかとかなり不安があります。ですから、はてなブログにサイトを開設してから、少し間が開いて記事投稿しています。

しかし、それではいつまで経っても怖気づいて逃げていることになってしまう。

 

このブログは大して日本史を知らない者が日本史を考えるブログです。追々、解題していきますが、ぶっちゃけ、「無欲」は「無翼」と書くべきかもしれません。それではひねりがないので、敢えて、「無欲」とした次第です。だって、あまりにも現代政治的な日本史に関する言説ばかりじゃないですか。

 

と、いきなり私の政治信条の紹介から始まりますが、無党派層です。長らく自民党共産党には投票したことがありませんでしたが、数年前に自民党に投票してしまいました。幼い頃からの印象で、とにかく自由民主党こそが諸悪の根源であり、彼らは自分の利益誘導しか考えない、ひどい人たちだみたいなことを思っていました。

 

その間、順不同で書きますが色々な政変があり、天変地異、大災害があり、私自身の失敗した脱サラなどもあり、日本社会も私自身も大きく変わりました。その中でやはり、例の大型感染症の影響は大きかったと思います。私の政治信条も大きく揺らぎ、いくつかの反省、考え方の変化がありました。これではだめだなと。

 

ダラダラ書いてもしょうがないので、すぐに結論へと話を向けるように努力しましょう。参政党現象なるものがありました。で、YouTubeでいくつかの動画を見たりしていました。すると、何か自分の中に違和感のようなものがフツフツと沸いてしまうのですよ。

 

大まかに言えば、彼らが指摘するようなグローバル勢力の認識、対抗が必要だという考えには共鳴します。大型感染症禍は私自身のグローバリゼーション礼賛を終わらせました。そうした状況で、彼ら保守界知識人の動画活動には共鳴する内容もありました。

 

ですが、どうもその考え方に触れる中、様々な本や動画を見ている中で、どうも腑に落ちない部分が出てきます。その最たるものは、動画に広告として出てくることが多い(最近減ってる気もしますが)、例の東北大学の田中名誉教授なる人物の「ユダヤ人埴輪」問題です。確かにニューヨークやロンドンにいるユダヤ人の格好と似た埴輪には見えます。だが、しかし、それがそのまま古代日本にそのような格好をしたユダヤ人が入植して、古墳を作り、ユダヤ教神道に結合した(影響を与えた)というような歴史があったという決定的証拠であるとは言えないのではないでしょうか。議論の方向性をふさぐことは良くないですけれど。私は彼の著作を読んでも、何か論証の弱い議論でしかないように思うのです。

 

ユダヤ人がああいう格好をしていたのは、これは私の印象かもしれないが、産業革命以降の都市ゲットーで、何となくロンドンのスタイルに思えてしまう。英国紳士的なファッション。で、旧約聖書を題材としたキリスト教絵画なんかを見ても、ああいう格好をしたユダヤ人が登場しているかと言えば、そんなことはなかったような。

 

とにかく、私は一部で常識化しようとしている最近の日ユ同祖論、これには懐疑的です。もう、政治的な意図があるとしか言いようがない。一部の保守層にとっては中国に日本の文化のルーツがあるということを否定できることは願っても叶ったりの要件なので、非常に好都合なのではないでしょうか。

 

しかし、私は、中国じゃないのは良かったとして、今度はユダヤが日本の先祖で、それでいいの? と思ってしまいます。いや、それはそれで、また色々な問題があるのではないかと。

 

ですから、彼らは私が緊急の勝手な造語をすれば、「科学的保守主義」の言論活動に期待する、肯定する部分はありますが、そのすべてについて無条件に賛同したり、礼賛したりもしない、そのことは自分の中で明確にしなくてはならないと思います。

 

さて、批判ばかりで、自分の日本史の考え方がないのは万年批判の野党みたいで頂けません。ですから、それを検討するのが、このブログに他なりません。私の人生の現時点での避けられない到達点、通過点として、この活動が存在する、ということです。そのことだけは最初に申し上げられると思います。