日本最低の新年のご挨拶記事でスタートしてみる

新年明けましておめでとうございます。年賀状なんてものはもうやめているし、人と接触していないので、独り言です。

 

果たして、このブログで何をしようか、今年は煮詰めていこうと思っています。YouTubeなんて無視すればいいとは思いますが、性格的に一度気になると無視できなくなってしまう。

 

やっぱねぇ、古代史関係の動画でものすごく違和感を感じるのが「邪馬台国阿波説」。彼らが邪馬台国の比定に終始してくれていれば、別に違和感を感じることはないのだが、どうも彼らのロジックはキセルみたいな感じがする。入り口と出口が違っているのに、出口のインパクトに感動してしまって、おそらく「これはすごい発見なのではないか」という陶酔があるというか。それは何かを理解した時に、人に伝えたいというか、それで世の中に貢献したいと思うというか、そういう気持ちは理解できなくはないです。

 

が、問題はその中身の意味する所です。全部を精査したわけではないが、彼らの邪馬台国比定の旅路の末、たどり着いた出口は2つある。

記紀とは全部阿波から始まったので、邪馬台国も当然阿波。日本神話は全部阿波が始まり。出雲はそれを隠蔽するための嘘

②日本神話で祀られている神はユダヤの神であり、国産み神話とは古代ユダヤの民の渡来の史実である

 

上の①はまぁ、戦後の歴史学津田左右吉の名誉回復から始まっているのだから、そうした、日本神話嘘説の一種だと思えば理解できなくはない。だが、問題は②だと思う。

 

とにかくこの日本の歴史を考えるというプロセスは恐ろしく難しく、面倒だと思う。かなり長いスパンでの近隣の中国・朝鮮史がわからないとならないし、世界史の知識がなければならない。

 

前置きは不完全な認識の言い訳だが、結果を恐れずに頭の中のモヤモヤを言葉にしていこうと思う。それが自分にとって必要だ(他に必要な人がいるかどうか、それは二の次だ)。それくらいに、私はあの阿波説界隈の動画を見るたびに不快な気持ちがしている。違和感感じないのだろうか。

 

やっぱり、日ユ同祖論はタチが悪いと思う。持って回らずに結論から言ってみよう。ヤオロズの神と一神教が同祖って考えるのはどう考えてもおかしい。で、伊勢神宮に祀られているのはユダヤの神? そんな異教徒の神を拝まされて2千年もやってきたの? 日本人というのは。そう思わないんですかね。同祖論に共鳴する人は。ノーベル賞の天才を生み出したユダヤと遺伝的素質が同じだと知って感動しちゃってるんですかね。おいおいYAP遺伝子って天才遺伝子って誰が勝手に確定してるんだよ。

 

また田中英道と茂木誠はユダヤ人埴輪だとか言ってるし。怪しい。田中英道に至っては魏志倭人伝倭人の条は偽書、金印も贋作。邪馬台国は無かった、と言っているにも関わらず、阿波説の人たちには何か権威のある学者からお墨付きを得ているようなエビデンス扱いになっているかのよう。CGS、神谷、参政党。もう政治的なプロパガンダ丸出しじゃないか。黒川が追求してた日本ユダヤ協会との関係とか、やっぱ気になるよな。

 

まだ、結論言い切れてない。要はね、イスラエルの地にはソロモン王のユダヤ王国ってのがかつてあったと書かれているけど、その神殿なり遺跡なりって見つかってないんでしょ? 例えて言えば考古学的発見は無いのに文献史学が先行して歴史的事実となり入植が進み、その地はもう100年も争いが絶えない土地になってしまったと。

 

警戒した方がいいと私は思いますよ。ユダヤの失われた10氏族、その一派が徐福で、日本各地に伝説が残っている、徐福は日本に来て王となった…。もう勘弁してくれよ、徐福、秦氏ユダヤ

 

まぁ、日本は古代から歴史戦のための楔を打ち込まれてしまったのかもしれないな。来訪者に対して優しすぎたんじゃないか、昔の日本人さんよぉ(都市伝説、スピリチャルと切り捨てればいいんだけどね、私もバカだよな)。

 

日本神話が阿波を舞台に、しかもそれが銅鏡を使った光通信というハイテクを武器にしたユダヤの氏族が日本を征服した物語だと、何やら熱を持って語る古老?の動画て見ました? そりゃ、初めて聴いたら、びっくりするけど。

 

落ち着いて考えてみようよ。余所者に乗っ取られたのが日本建国で、その結果祭り上げられている神ってのは異教徒の神じゃないか。で、戦後日本はGHQの洗脳だとわーぎゃー言っている連中が、女性宮家反対とか言っているわけです(ちょっと例示がうまくないけど、保守界隈の思想に詳しいわけではないから不適切だろうな。結局、明治天皇制万歳!という主張だろう)。古代に洗脳されて、20世紀でまた洗脳されて、その結果また思い出しているのが、第一次洗脳の記憶だったら、一体どないすんねんて。そういうふうにどうして考えないんだろう。

 

違うだろうと。倭国大乱、大和建国、飛鳥時代奈良時代平安時代。すんなりと行かなかったですよね。何度も揺り戻しのような動きが繰り返された。それは新しい政体というものを巡る日本人の拒絶反応みたいなものが絶対にあったはずだと。その間にたとえば、外来の思想や制度が接木されたとしても、合わないものは排除されていく、そういうプロセスが絶対あるはずだと。私は信じたいですね。信じるものは救われるのか、救われないのか。

 

まぁ、私はもう、地元の神社に初詣すら行けない思想信条の持ち主になってしまいましたけどね。地元の神社って何か「明治天皇制」って感じがするんですよ。何でも統計データを収録しているサイトってのがあって、そこで神社の数とかもあって、都道府県別に数が出てる。全国では8万5千くらいあったかな。で、コンビニの数と比較してなんか解説されていて、何その比較、意味あんの? とか思ったけど、要は明治時代から昭和にかけて、そういう日本社会にしていったわけです。神仏習合やめて国家神道でって。まぁ、だから地元にあるおよそ歴史の浅い小さな神社なんて、コンビニの店舗ぐらいの意味しかないのかもしれない。

 

あーあ。新年のブログ記事、こんなの書いて始めちゃったよ。こりゃ、今年はもう最悪の年になりそう。私はやっぱり、「天皇」という存在を理解したり納得はできないかもしれない。だから、必死に理解しようと努力してるんですがね。