オカルトとスピリチャルにまみれて

三日坊主ならぬ一日坊主で消えそうな本ブログですが。色々、考えてはいるんです。

 

動画サイトのおすすめに従って見てみるんですが。すると傾向が似ている動画が次々と出てくるので、気が付いたらオカルトとスピリチャル、都市伝説系の日本古代史の動画がどんどん出てくるようになっていました。

いやぁ、ひどい。何と言うか、彼らのだましのテクニックも相当うまい。あれだけ、次から次へと、おぼろげながら聞いたことのある西洋古代史の国名や人名を駆使されて、矢継ぎ早に謎解きをされているうちに、「う、これはそうかもな」と納得させられてしまうだろう。対策として、一つだけ言えるのは「信じるか、信じないかは、あなた次第です」と言っている動画は信じない、これです

普通の人が知っている古代史の知識では、縄文時代に文字は無かったということ。歴史は口伝で伝えられていたことは古事記の序文にも書いてある(それを嘘というなら、本文の虚実すら怪しくなる)。文字で記録するという文化を持たなかった民族の祖先が、なぜ文字のあった古代文明に所属していたのだろうか。しかも、そこの王族や神官に関わる上層階級の人達だという。そんな言説をどうして信じられようか。

 

素人でも、本の少し自分の知っている「確かな常識」を意識して使いこなせば、こうした論理詐欺に引っかからないのではないでしょうか。いや、手っ取り早く、これまで聞いたことないような不思議話に触れたいという欲求を満たすというニーズが世の中には一定程度あるということなんでしょう。まぁ、彼らは博学だわ。それとお話がものすごくうまい。

 

私が重視するのは日本語のあり方だ。天皇ではない。ついでに言えば邪馬台国はヤマト朝廷の母体ではないと思う。でないと、「倭国大乱」と呼ばれた状況の意味が分からない。接戦にはなったけど、最後は王統が継続されてめでたしめでたし。そういうストーリーなのだろうか。

 

テレビでも良く見る松木先生が島根県のイベントで講演していた動画があって、戦争の考古学というのを話して面白かった。考古学的に戦争があった証拠は何かということで、5つほど挙げられていた(佐原学説)。やはり、対人の武器が作られたのは弥生時代で、確かに縄文時代にも争いで殺された人骨は出てくるが、それは農具で殴られた跡だったりするという。突発的な暴力や私怨のようなものはいつの時代でもあるだろう。ところが、やはり共同体全体、社会が戦争モードに突入していったという大きな社会変化というものがあったのだろうと推測されます。

 

その状況が倭国大乱と呼ばれた状況へと進展していく。その原因は大陸の政治状況なのだろうと。

 

倭人の発生はいつなのか。これは縄文なのか。縄文だとすれば、その起源は聞くところにどんどんと前倒しになっているようだ。この年代観が重要なのは日本語の成立に関わるからだ。邪馬台国九州国関係の動画を見ると、結局、中国から朝鮮半島経由で伝わった○○が、とか○○族が、という言い方が出てくる。私はそうかもしれないが、と思うが、同時に「では、なぜ日本語は中国語とは文法が違っているのか」ということだ。漢字、稲作、鉄器、航行技術? それらが中国から伝わったのだとして、殆どすべての日本文化が中国起源だということで話が落ち着くのかもしれないが、日本人なら誰でも知っているこの日本語は中国語とは明らかに違っている。そんなにすべてを教えてもらった文化なのに、語順だけマネしなかったのはどういうことなのか。

 

渡来人や徐福が日本に来たとして、彼らは当時やはり圧倒的に少数者だったという状況があったのだろう。当初から侵略者として来日したのではなく、平和共存の時代もあったのだろうと想像する。ところが、最終的には縄文流の社会秩序を保存しようというグループと、大陸の最新文化に敏感なグループの間で利害の対立が起こるようになっていった。

 

ここから先は、現時点での整理であり、私自身が自説として論理展開を熟慮しているものではない。それらを整理するための方法として作り始めたブログである。

 

中国の魏という国と倭人倭人の長が卑弥呼でこの女王は鬼道を行ったという。鬼道というのはいわゆる道教の呪術。魏という漢字の旁(つくり)は鬼道の鬼である。とすれば、魏という国は鬼道に委ねた国ということを言い表しているのだろうか。つまり、この両国は宗教観は完全に一致しているということになる。だから、相互に支援を行った。これが、魏志倭人伝に書かれた内容だった。

 

魏は歴史の勝者にはなれなかった。なのに、なぜ倭国卑弥呼の系譜が生き残って日本国の基礎になったと考えるのだろうか。記紀卑弥呼の記述は無くても不自然はない。むしろ、記紀のどこかに卑弥呼が隠されていると考える方がおかしいのかもしれない。なぜなら、鬼道に類する宗教行為は否定される経緯をたどったのだから。

 

鬼道に類する行為とは例えば、何か。これは間違っているかもしれないが、いけにえのような行為が含まれるだろう。すると諏訪神社は鬼道系の儀式が残っていると言えるのかもしれない。また、どれだけ管理しようと地方においてこうした習俗を排することは難しかったとみえ、テレビの歴史番組をぼーっと見ていて、私が急にハッとした事柄を書いて、今回の記事の結びとしたい。

 

それは毛利元就のエピソードだった。「百万一心」の話、城の拡張工事で人柱に反対し石碑を奉らせたという。ということは逆に、中国地方では人柱で地鎮するという行為が戦国時代までは確実に行われていたということだ。これを鬼道の系統だとするのは反論もあるかもしれないが、生贄をやめさせた天皇の事蹟が記紀にあったりもする(詳細は忘れましたが、その辺りが私のまだまだダメダメな所)。放っておいたら保存される習慣。新しい宗教観を持ったグループによる政治・宗教の改革というのが大和朝廷以降の動きだったのではないか。すると、やはり鹿を生贄にする神道行事のある諏訪は旧グループの祭祀を行っていたことになる(ソフトなものに変えさせられながら)。